ザ・ビーチ・ボーイズ マイク・ラヴ 来日インタビュー
~1963年を振り返って~
遅ればせながらマイク・ラブのインタビューが載っていました。
1963年6月15日に坂本九の「上を向いて歩こう」が、英語タイトル「SUKIYAKI」として、米ビルボードHot100で1位を獲得。その後3週間首位を守り続け、年間チャートでは13位を記録した。同年に「サーファー・ガール」「サーフィン・U.S.A」で一躍スターダムに伸し上がったザ・ビーチ・ボーイズ。
1961年に結成され、翌年の「サーフィン・サファリ」でのデビュー以来、「ファン・ファン・ファン」、「カリフォルニア・ガールズ」など西海岸カルチャーを描いた軽快なヒット・ナンバーを放ち、1966年にはロック史に燦然と輝く金字塔『ペット・サウンズ』を発表。ブライアン・ウィルソンの事実上の離脱などがありながらも、1988年には映画『カクテル』の主題歌「ココモ」が大ヒットし、ロックの殿堂入りを果たす。1983年にはデニス、1998年にはカールのウィルソン兄弟を失うが、マイク・ラブとブルース・ジョンストンを中心に、現在も活動を続けるザ・ビーチ・ボーイズ。2012年には、オリジナル・メンバーがデビュー50周年を祝して再結成、リユニオン・ワールド・ツアーを開催、8月には日本も訪れた。
2013年3月に再び日本の地に戻ってきたザ・ビーチ・ボーイズの結成メンバーの一人、マイク・ラヴに1963年当時の音楽シーンについて話を訊いた。
60年代前半は、音楽的にとてもエキサイティングな時期だった
−−まず最初に50年前となる1963年の音楽シーンについて教えてください。ビーチ・ボーイズは、“サーフ・ロック”バンドの先駆けでもありますよね。
マイク・ラヴ:そう、そして日本に初めて来た時の僕達のジャンルは“エレキ・ギター”だった。60年代初頭は、サウンド・システム、照明やテクノロジーの面でまた発展途中で、現代とは全く違った。今は、特定の会社がそれに特化したサービスを提供するまでになっている。昔はとても原始的で、いわゆるワゴン車にカーゴトレーラーをつけて、ドラムキットやアンプなどを乗せてツアーした。一晩で運転できる距離も決まっていたので、その点でも制限があった。会場では多くの場合、休憩を挟みつつ一夜に45~50分のセットを4回ほど演奏した。その頃はまだオリジナル楽曲が少なかったので、「ジョニー・B.グッド」、 レイ・チャールズの「ホワッド・アイ・セイ」などのカヴァー曲やチャック・ベリー、リトル・リチャード、エーヴァリー・ブラザーズなど50年代中盤から後半に私たちが影響されたロック・アーティストによる曲のアレンジを自分たちで習い演奏してた。原始的だったが、楽しい時期で、エネルギーに満ち溢れていた。ロックはまだ新しく、若い世代の音楽だったんだ。60年代前半は、音楽的にとてもエキサイティングな時期だったよ。
マイク:50年代にヒットしたチャック・ベリーの「スウィート・リトル・シックスティーン」と言う曲に 影響されて書いた曲。私はその頃まだ高校生だった。1963年は、23歳ぐらいだったかな (笑)。私の誕生日は3月15日なんだが、その頃にちょうどリリースされた。オーストラリア、南アフリカ、イスラエル、スウェーデン、ノルウェイなど様々な国でチャートを上昇していると聞いてとても嬉しかったね。その1年後にちょうど日本に来たんだ。−−そして1963年には「サーフィン・U.S.A.」と「サーファー・ガール」がリリースされ、この2曲でビーチ・ボーイズは、国内はもちろん海外でもその名を知られるような存在になりましたよね。「サーフィン・U.S.A.」の制作経緯について教えてください。
−−アメリカのビルボード・チャートにて2位を記録したというのを聞いていかがでしたか?
マイク:わくわくしたよ。初めてリリースしたシングルは「サーフィン」というタイトルで、小さなインディーのレーベルからリリースされた。私たちはサーフィンについて歌った初のバンドだったので、多少は反響があった。インストゥルメンタル・バンドで、“サーフ・ロック”と呼ばれていたものは存在したが、実際それについて歌ったバンドは1961年当時まだいなかった。翌年リリースされた「サーフィン・サファリ」は、キャピトル・レコーズからリリースされた初のシングルで、大きなレーベルからのリリースだったので、また少し反響は広がった。そして3枚目の「サーフィン・U.S.A.」でブレイクして、今までで最高のチャート・ポジションにランクインすることができた。そして国内にみならず、世界中に飛び火していったのは、とても嬉しかったね。
マイク:場所は残念ながら憶えていないな。その頃はずっとツアーをしていたからね。でもラジオで流れているのを聴くのは、エキサイティングだったね。ロックでエネルギー溢れる曲だから。−−2位になったというのを聞いた時、どこにいたか憶えていますか
マイク:「サーファー・ガール」では、ハーモニーを通じて、バンドの繊細な面を見せることができたと思っている。ビーチ・ボーイズを他のロック・グループやポップ・グループから差別化するのは曲の洗練されたハーモニーなんだ。全ての曲に、何かしらの形でハーモニーがある。それも4パートハーモニー。男性グループで、その4人の歌声が上手くブレンドすることは難しい。この曲は、早くからハーモニーが、ビーチ・ボーイズにとって特筆的な部分なんだということを証明してくれた。「サーフィン・U.S.A.」にもハーモニーはあるけれど、格段とアップテンポでロック調な曲だからね。ダイナミックなロック・サウンドの「サーフィン・U.S.A.」、そしてビーチにいる女の子についてのバラード「サーファー・ガール」で繊細な部分もみせることができた。−−ではこの2曲のヒットは、バンドにどのような変化をもたらしましたか?
言葉が通じなくても曲が持つ音楽的な価値を理解することができた
−−13位にランクインしている「SUKIYAKI」はご存知ですか?
−−他に好きな曲はありますか?
−−そして1963年はマーティン・ルーサー・キング・ジュニアが「私には夢がある」のスピーチを行ったり、ジョン・F・ケネディが暗殺されたりと様々な印象的な出来事が起った年でもあって、「ウォームス・オブ・ザ・サン」はケネディ大統領の暗殺に触発され、作られた曲だというのをききました。
−−昨年結成50周年を迎えましたが、50年以上活動を続けてこれた理由は?
−−そして曲が“タイムレス”というのもありますよね。50年経った今でも共感でき、普遍的な魅力を持つというのは、素晴らしい事ですよね。
日本で慕われているのは、大きな誇り
−−では、現在まで精力的に活動を行い、ツアーをし続ける原動力となっているものは?
マイク:ミュージシャンが音楽を演奏し、作家が文章を書き、画家が絵を書くように私は音楽家庭で育った。リビングにはグランド・ピアノ、オルガン、そして2人の姉妹がハープを演奏したので、ハープもあった。ウィルソン家も同じで、彼の母はたまにピアノを教えたりもしていた。日常に音楽が溢れていて、クリスマスの時に集まったらクリスマス・キャロル、感謝祭で集まる時も音楽があって、もちろん誕生日もそうだ。音楽は日常の一部で、第2の天性なんだ。音楽を楽しみ、歌うことを楽しむ。さらに私たちの場合は、ハーモニーを楽しむこと。元々2パートハーモニーのエーヴァリー・ブラザーズの曲を歌う時には、3つ目、4つ目のハーモニーを足して遊んでみたり。50~60年代初期のドゥーワップもハーモニーがたくさんあり、ビートも軽快で、曲のストーリーも面白くて好きだね。当時ブライアンは、フォー・フレッシュマンズという50年代に活動していたグループの熱狂的なファンだった。彼らの歌法は“モダン・ハーモニー”と呼ばれているけれど、とて巧妙で、そこがブライアンが気に入ったところだと思う。彼らの曲は、何曲か学んでいて、今でもロケーションや時期があえば、「心には春がいっぱい」は演奏しているよ。別に誰かに「ツアーをやれ!」とお尻を叩かれてるわけではない。私たちには世界中に何千人、何万人ものファンがいて、彼らが今になってもライブを観に来てくれるので恵まれている。
−−50年前の自分と今の自分を比較するといかがですか?50年前から変わっていなことは?
−−では50年前の自分にミュージシャンとしてアドバイスを送るとしたら?
−−最後に日本のファンへのメッセージをお願いします。
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