2013年7月11日木曜日

ザ・ビーチ・ボーイズ マイク・ラヴ 来日インタビュー ~1963年を振り返って~

ザ・ビーチ・ボーイズ マイク・ラヴ 来日インタビュー
 ~1963年を振り返って~
 
 遅ればせながらマイク・ラブのインタビューが載っていました。
 
 
 
1963年6月15日に坂本九の「上を向いて歩こう」が、英語タイトル「SUKIYAKI」として、米ビルボードHot100で1位を獲得。その後3週間首位を守り続け、年間チャートでは13位を記録した。同年に「サーファー・ガール」「サーフィン・U.S.A」で一躍スターダムに伸し上がったザ・ビーチ・ボーイズ。
 1961年に結成され、翌年の「サーフィン・サファリ」でのデビュー以来、「ファン・ファン・ファン」、「カリフォルニア・ガールズ」など西海岸カルチャーを描いた軽快なヒット・ナンバーを放ち、1966年にはロック史に燦然と輝く金字塔『ペット・サウンズ』を発表。ブライアン・ウィルソンの事実上の離脱などがありながらも、1988年には映画『カクテル』の主題歌「ココモ」が大ヒットし、ロックの殿堂入りを果たす。1983年にはデニス、1998年にはカールのウィルソン兄弟を失うが、マイク・ラブとブルース・ジョンストンを中心に、現在も活動を続けるザ・ビーチ・ボーイズ。2012年には、オリジナル・メンバーがデビュー50周年を祝して再結成、リユニオン・ワールド・ツアーを開催、8月には日本も訪れた。
 2013年3月に再び日本の地に戻ってきたザ・ビーチ・ボーイズの結成メンバーの一人、マイク・ラヴに1963年当時の音楽シーンについて話を訊いた。
60年代前半は、音楽的にとてもエキサイティングな時期だった
−−まず最初に50年前となる1963年の音楽シーンについて教えてください。ビーチ・ボーイズは、“サーフ・ロック”バンドの先駆けでもありますよね。
 
マイク・ラヴ:そう、そして日本に初めて来た時の僕達のジャンルは“エレキ・ギター”だった。60年代初頭は、サウンド・システム、照明やテクノロジーの面でまた発展途中で、現代とは全く違った。今は、特定の会社がそれに特化したサービスを提供するまでになっている。昔はとても原始的で、いわゆるワゴン車にカーゴトレーラーをつけて、ドラムキットやアンプなどを乗せてツアーした。一晩で運転できる距離も決まっていたので、その点でも制限があった。会場では多くの場合、休憩を挟みつつ一夜に45~50分のセットを4回ほど演奏した。その頃はまだオリジナル楽曲が少なかったので、「ジョニー・B.グッド」、 レイ・チャールズの「ホワッド・アイ・セイ」などのカヴァー曲やチャック・ベリー、リトル・リチャード、エーヴァリー・ブラザーズなど50年代中盤から後半に私たちが影響されたロック・アーティストによる曲のアレンジを自分たちで習い演奏してた。原始的だったが、楽しい時期で、エネルギーに満ち溢れていた。ロックはまだ新しく、若い世代の音楽だったんだ。60年代前半は、音楽的にとてもエキサイティングな時期だったよ。
 
−−そして1963年には「サーフィン・U.S.A.」と「サーファー・ガール」がリリースされ、この2曲でビーチ・ボーイズは、国内はもちろん海外でもその名を知られるような存在になりましたよね。「サーフィン・U.S.A.」の制作経緯について教えてください。
      マイク:50年代にヒットしたチャック・ベリーの「スウィート・リトル・シックスティーン」と言う曲に   影響されて書いた曲。私はその頃まだ高校生だった。1963年は、23歳ぐらいだったかな   (笑)。私の誕生日は3月15日なんだが、その頃にちょうどリリースされた。オーストラリア、南アフリカ、イスラエル、スウェーデン、ノルウェイなど様々な国でチャートを上昇していると聞いてとても嬉しかったね。その1年後にちょうど日本に来たんだ。
 
−−アメリカのビルボード・チャートにて2位を記録したというのを聞いていかがでしたか?
マイク:わくわくしたよ。初めてリリースしたシングルは「サーフィン」というタイトルで、小さなインディーのレーベルからリリースされた。私たちはサーフィンについて歌った初のバンドだったので、多少は反響があった。インストゥルメンタル・バンドで、“サーフ・ロック”と呼ばれていたものは存在したが、実際それについて歌ったバンドは1961年当時まだいなかった。翌年リリースされた「サーフィン・サファリ」は、キャピトル・レコーズからリリースされた初のシングルで、大きなレーベルからのリリースだったので、また少し反響は広がった。そして3枚目の「サーフィン・U.S.A.」でブレイクして、今までで最高のチャート・ポジションにランクインすることができた。そして国内にみならず、世界中に飛び火していったのは、とても嬉しかったね。
 
−−2位になったというのを聞いた時、どこにいたか憶えていますか
  マイク:場所は残念ながら憶えていないな。その頃はずっとツアーをしていたからね。でもラジオで流れているのを聴くのは、エキサイティングだったね。ロックでエネルギー溢れる曲だから。
−−ではこの2曲のヒットは、バンドにどのような変化をもたらしましたか?
 マイク:「サーファー・ガール」では、ハーモニーを通じて、バンドの繊細な面を見せることができたと思っている。ビーチ・ボーイズを他のロック・グループやポップ・グループから差別化するのは曲の洗練されたハーモニーなんだ。全ての曲に、何かしらの形でハーモニーがある。それも4パートハーモニー。男性グループで、その4人の歌声が上手くブレンドすることは難しい。この曲は、早くからハーモニーが、ビーチ・ボーイズにとって特筆的な部分なんだということを証明してくれた。「サーフィン・U.S.A.」にもハーモニーはあるけれど、格段とアップテンポでロック調な曲だからね。ダイナミックなロック・サウンドの「サーフィン・U.S.A.」、そしてビーチにいる女の子についてのバラード「サーファー・ガール」で繊細な部分もみせることができた。
 
言葉が通じなくても曲が持つ音楽的な価値を理解することができた
−−そして「サーフィン・U.S.A.」は、全米年間チャートでも2位になっているんですよ。
 
マイク:ワオ!そうなんだね

−−13位にランクインしている「SUKIYAKI」はご存知ですか?
 
マイク:本当は「SUKIYAKI」というタイトルではないんだよね。キュウ・サカモト。とてもハンサムで、曲もいいよね。この曲こそ当時LAのラジオでかかっているのを憶えているよ。世界的にヒットした曲だもんね。もちろん日本語は分からないけれど、とてもいい曲だ。素晴らしいメロディで、私たちもお気に入りだった。この曲が特に好きだったのは、ビーチ・ボーイズは、美しいメロディ、心地よいハーモニー、巧みなアレンジ、素晴らしいトラッキングに惹かれるから。言葉が通じなくても曲が持つ音楽的な価値を理解することができた。とても感傷的で。“上を向いて歩く”という曲の意味は後から知ったんだ。

−−他に好きな曲はありますか?
 
マイク:「サーフィン・U.S.A.」が1番好きだよ(笑)!坂本九は2番目に好きだ。他にもいい曲がたくさんある。ピーター・ポール&マリーが日本で有名だったかはわからないけれど、「パフ」や「風に吹かれて」もいい曲だね。1963年はいい曲が多かった。フォー・シーズンズも好きなグループのひとつだ。アメリカでは、私たちの同志で、この年に「恋のハリキリ・ボーイ(Walk Like A Man)」と言う曲をリリースしている。でも24位で、私たちは2位だ(笑)。ジャンとディーンの「サーフ・シティ」もいい曲だね。この曲はライブでも演奏している。私の従弟のブライアン(・ウィルソン)が書き始め、ジャン・ベリーが完成させた曲なんだ。サーフィンの曲ということ、私も数々の共作しているブライアンの曲と言う部分で繋がりがある。
 
−−そして1963年はマーティン・ルーサー・キング・ジュニアが「私には夢がある」のスピーチを行ったり、ジョン・F・ケネディが暗殺されたりと様々な印象的な出来事が起った年でもあって、「ウォームス・オブ・ザ・サン」はケネディ大統領の暗殺に触発され、作られた曲だというのをききました。
 
マイク:実は触発されたのではなくて、その前に書かれた曲なんだ。ブライアンがちょうど一人暮らしを始めた頃に、彼の家で曲作りを行ったことがあった。時期は11月で、その時彼は一度聴いたら忘れられないような哀愁漂う美しいメロディを書いた。そしてそこに私が詞をつけていった。時間は夜の10時ぐらいで、11時、12時、と時は刻々と過ぎていっていた。詞は、失恋について書いたもの。彼女はもう自分のことを愛していない、昔とは同じ気持ちではないという悲しい曲だが、恋に落ちていた時の記憶は残っていて…それが“太陽の温もり”なんだ。そして眠りにつき、テキサス州のダラスでケネディ大統領が撃たれたというニュースで朝起こされたんだ。その余波は知っているよね。なので事件に直接触発されたものではなくて、その前の晩から明朝にかけて書かれたもの…当時彼はテキサス州でキャンペーンを行っていたので、多分朝起きてその日の準備をしている時に完成したのではないかな。レコーディングはその数日後に行われ、感極まるものだった。このことをふまえて曲を聴けば、詞や音楽以外に心情的にもその時のことを上手く表していると思う。アメリカ国民にとって大きなショックだった。誰かが自国の大統領を暗殺するなんて。彼は多くの人々から愛されていたが、その分彼を憎む人も大勢いた。このような大きな事件は、国民全員に影響を及ぼすような悲劇だよね。

 
−−昨年結成50周年を迎えましたが、50年以上活動を続けてこれた理由は?
 
マイク:多くのヒット・シングルがあるし、アルバムもたくさんリリースしている。そして個々の曲に異なる個性があるので、ビーチ・ボーイズの曲は飽きないと思うんだ。色々なアレンジ、バラード、アップテンポ、ミッドテンポなど様々な曲調やサーフィン、車、学生生活に焦点をあてた曲を書いた先駆けでもある。そして『ペット・サウンズ』では、内省的でエモーショナルな部分が見せることができた。「素敵じゃないか」「スループ・ジョン・B」「神のみぞ知る」「キャロライン・ノー」などオーケストレーションが美しい曲が数々ある。エネルギーとユニークさが共存している。それに休暇を連想させる「サフィーン・サファリ」に行きたくない人なんていなもんね。人生における大志や自然を楽しむということをサーフィン、ビーチや女の子を通じて2~3分の声明にしていった。映画のサウンドトラックにも多く使われていて、毎年曲が使われているメジャー作品が公開される。あとビートルズ、ビーチ・ボーイズ、モータウンは、60年代の音楽で一番演奏されているものでもある。このリストに肩を並べることが出来るのは素晴らしいよね。今になってもオールディーズのラジオ、映画のサウンドトラックやCMに使われ、曲が世間の耳に入ることを光栄に思う。それに元々のファンが自分の子供たちに、そして彼らがまたその子供たちに曲を聴かせていく…とてもユニークな現象だと思っているよ。

−−そして曲が“タイムレス”というのもありますよね。50年経った今でも共感でき、普遍的な魅力を持つというのは、素晴らしい事ですよね。
 
マイク:そうだね。今でも美人な“サーファー・ガール”はいるし、“ドント・ウォーリー・ベイビー”と言うこともある。“もし結婚したら素敵じゃないか”というのは、誰かを想っている若者でも、年配の人にとってもその当時に意味があったことかもしれないから、どちらの視点からでも共感できる。たとえば「ココモ」の“Aruba, Jamaica ooh I wanna take ya / To Bermuda, Bahama come on pretty mama”の、“pretty mama”は子供の視点、大人の男性、双方の視点で成立する。特定の年齢グループだけではなく、多くの人々が共感できるような詞を書くことは、私が普段から気を付けていることでもある。様々な世代と共有できるような作品作りはいいチャレンジでもある。

日本で慕われているのは、大きな誇り
−−では、現在まで精力的に活動を行い、ツアーをし続ける原動力となっているものは?

マイク:ミュージシャンが音楽を演奏し、作家が文章を書き、画家が絵を書くように私は音楽家庭で育った。リビングにはグランド・ピアノ、オルガン、そして2人の姉妹がハープを演奏したので、ハープもあった。ウィルソン家も同じで、彼の母はたまにピアノを教えたりもしていた。日常に音楽が溢れていて、クリスマスの時に集まったらクリスマス・キャロル、感謝祭で集まる時も音楽があって、もちろん誕生日もそうだ。音楽は日常の一部で、第2の天性なんだ。音楽を楽しみ、歌うことを楽しむ。さらに私たちの場合は、ハーモニーを楽しむこと。元々2パートハーモニーのエーヴァリー・ブラザーズの曲を歌う時には、3つ目、4つ目のハーモニーを足して遊んでみたり。50~60年代初期のドゥーワップもハーモニーがたくさんあり、ビートも軽快で、曲のストーリーも面白くて好きだね。当時ブライアンは、フォー・フレッシュマンズという50年代に活動していたグループの熱狂的なファンだった。彼らの歌法は“モダン・ハーモニー”と呼ばれているけれど、とて巧妙で、そこがブライアンが気に入ったところだと思う。彼らの曲は、何曲か学んでいて、今でもロケーションや時期があえば、「心には春がいっぱい」は演奏しているよ。別に誰かに「ツアーをやれ!」とお尻を叩かれてるわけではない。私たちには世界中に何千人、何万人ものファンがいて、彼らが今になってもライブを観に来てくれるので恵まれている。

−−50年前の自分と今の自分を比較するといかがですか?50年前から変わっていなことは?
 
マイク:これは全員に言えることだが、洗練されたし、知識も増えた。テクノロジーに関しては、私は疎くて、とくに興味もない。脳のそれに関する部分が働かないと言ったほうが正しいかな。でも詞を書いて、曲づくりをして、レコーディングをすることは今でも好きだ。まだやりたいことや実現出来たらいいなと思うプロジェクトがたくさんある。最近では、50周年を記念したツアーを開催した。本当は50公演のみの予定だったが、最終的には73公演行って、それが終わったら各自それまでやっていたことに戻った。新しい場所へ行って、食べ物や建築など初めての文化を体験するのも好きだ。音楽のおかげで、夢にも思わない場所に行くこともできたので、とても恵まれていると思っている。



インタビュー写真
 
−−では50年前の自分にミュージシャンとしてアドバイスを送るとしたら?
 
マイク:ドラッグはダメ。それにタバコも。もし歌い続けるのであれば、そのうちツケがまわってくるから(笑)。健康的なライフスタイルを送る。私は瞑想をしている、超越瞑想法をね。これは1967年12月にマハリシ・マヘーシュ・ヨーギーに教わったもので、その日以降毎日瞑想している。仏教における瞑想法、道教に基づいたエキササイズなどの肉体的なものや超越瞑想法のように穏やかで内面的なもの色々ある。ストレス、テンション、疲れなどを取り除くためにとても有効で、苛立ちやストレスなく物事に取り組むことが出来る。個人的、経済的なものや対人関係だったり人生には問題はつきものだ。それに飲み込まれず日々の活動に励むこと、そしてアルコールやドラッグに安堵感を求めないこと。頼ってもいい結果に成り得ることはないから。あくまでもクリーンなライフスタイルを送ることを推奨するね。創造性を広げ、クリアなマインドで精力的に日々の活動にハッピーに精進できるからだ。
−−最後に日本のファンへのメッセージをお願いします。
 
マイク:日本で慕われているのは、大きな誇りだ。いつも日本へ来ることは楽しみにしている。1964年に来た時にホテルのロビーで日本の児童にひらがなを教えてもらったことも鮮明に憶えているよ(笑)。アイウエオ カキクケコ サシスセソ。とてもスウィートだった、子供たちに言葉を教えてもらえて。そして高校生の時には、クラスメイトにLA生まれの2世の人たちもいた。成人してからも、日本の人々、文化、食べ物を尊敬してきたので、日本で公演を行うと多くの観客が観に来てくれることを嬉しく思っている。



 

0 件のコメント:

コメントを投稿